白い部屋の片隅で

主に寝て食っています

ベンツと薔薇

春が終わった。そう感じるほど気温の高い日が続いている。

街で見かける花々は、桜が代表するような淡い色のものから、存在感を周囲にアピールしてやまない原色のものへ移行しているように思う。母の日も過ぎ、どこかの子供が母に贈ったカーネーションの赤い色が、いたるところのベランダで揺れている。そんな気がする。

私はそんな軒先からしか季節を感じられないような住宅街に住んでいる。世間がどこへも行くなと言うから、近所を散歩するしかない。近所には少し歩くと、まったく別の世界が広がっている。俗にいう「高級住宅街」だ。いったいどんな悪いことをして手に入れたんだろうと思うほどのでかすぎるガレージや、青々とした芝生の庭、コンクリートのシミ一つない壁。そして、ベンツが広くはない路地を通過する。そのベンツは決まって、シンボルマークが埋まっている階級が高いものだ。ピカピカに磨かれたベンツが入った車庫、庭に咲き誇る様々な色の薔薇。資本主義が私の目の前をかすめ、その暴力がたてる風でクラクラしかける。

社会に出て数年が経つが、車庫にベンツを納めて庭に薔薇を咲かせるのが、どれほど至難のわざか、なんとなく理解してきた。それが羨ましいなど一片も思わなかった学生時代の日々が遠く感じる。ベンツや薔薇が社会に適応し、認められた証だということはしないが、それでもそこには何か「安らかな生活」の香りがする。ベンツがあるのは、家族を素晴らしき休暇へ連れていくためかもしれない。薔薇を庭に咲かせるならば、その世話をするだけの時間がある家族を養っているのだろう。

それは、ただ目標に向かい邁進した結果の副産物かもしれない。素晴らしく高級な生活であることを誰も否定できないだろう。でもこれを社会で生き続けるためのモチベーションにできるほど、私は昔の自分を突き放すことができない。社会的ステータスなど相対的な物ではなく、絶対的な自信や存在意義。なんのために自分は生きて、存在して、このあとこの世界で呼吸し続けるのか、まだまだ答えが出ない。早く道筋を見つけたい、という焦りのみで生きている。

また今日も散歩から帰り、白い部屋の壁を見つめて浅く呼吸をする。