白い部屋の片隅で

主に寝て食っています

知性

「フランスでは、知性があり、興味深い会話ができることが、パートナー選びでは絶対の条件なんだ」

 先日話をしたフランスから来た人が、そう話していた。

 流れとしては「日本人の男性は、可愛らしい容姿であること、自分より学歴が低い女性を好む」ということを話しており、その対比として出た言葉であった。私はそれを不愉快なことだと思ってはいたが、どこかでそれが当然と考えていた自分もいて、目覚めるような気持になったことをよく覚えている。

 そして「知性」という言葉が私の心に強く残った。言葉としての存在は知っていても、あまり使うことがない類の言葉であったからだ。「知性がある」とはどういうことか、少し立ち止まり考えてみようと思った。

 「知性がある」とは知識がある状態とは異なる。思うに、知識を手に入れたとき、それに関しどう考え、活用するか、もとい、知識を立ち止まり検討できるか、それが知性の有無の分かれ道ではないだろうか。知識を手に入れやすい昨今ならば、「メディア・リテラシー」も知性の一つだろう。Twitterで目にした情報を鵜呑みにしないこと、テレビの報道から得た印象のみを信じないこと。情報の再検討や、情報に対し意見を持つことが重要と思われる。

 意見をもっていること、その最たるものは、自身の絶対的な哲学を持ち生きるということではないだろうか。自身のこだわりを貫くというのは、わがままとは少し違う。毎日積み重ねなくてはならない選択を、自分が納得できる主軸に沿って成すことはただ自己中心的であることよりよほど難しい。意志の強さ、誘惑への忍耐強さ。そんなものも必要だ。振り返ってみれば、私が好きになる人たちもその姿勢に確かな哲学が感じられた。尊敬する友人も、先生も、その作品を追いかける作家やアーティストも、自分なりの哲学を築き、それに基づいて行動しているように私は思い、魅力を感じたのではないだろうか。

 現代社会で生きる我々は実はいろんな問題の渦中にある。政治的な傾向とか、経済への視座とか、この日本では口にすることが気恥ずかしいという空気がなんとなくあって、表明しづらい。かく言う私も他者の反応が恐ろしくて、自身の方向性を表明できていない自覚はある。これには気恥ずかしさに加え、自分の「知識」の無さが露呈するのが怖いから、というのもある。「知識」の無さを示すことが、実は「知性」を身に付ける第一歩なのかもしれないと思い、そのハードルの高さに頭を抱えた。