白い部屋の片隅で

主に寝て食っています

「わたしは、ダニエル・ブレイク」を観た日

休日の午後、ある映画を観た。ぼんやりとして夕方を迎え、夕食の準備のため駅前に買い物に行った。スーパーでは、数日前に解禁されたボジョレーヌーボーのフェアをやっていて、わたしは1本ワインを購入し、重くなった買い物袋を持って歩いていた。

「すみません、ちょっといいですか」

声をかけられた。制服を着た女の子。なにかバインダーを持っている。

「いま、私立高校の学費無償化の署名活動をしているんです。よろしければお名前書いていただけませんか」

数多くの人が駅前を歩く中、彼女は私を選び、マスクの上からでもわかるにこやかな口調で話した。彼女も、現役の高校生だという。私は買い物袋を地面に置き、そのバインダーの書類に名前と住所を書いた。予定になかったワインを購入した私、自分の通う学校の費用のため署名活動をする彼女。その子の個人的なことは何もわからなかったけど、書きながら私は午後に観た映画のことを思い出して、胸がどんどん苦しくなってきた。

 

私が観たのは、イギリスの映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」だ。

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イギリスのある町に暮らす、壮年の男性が主人公。彼は経験豊富な大工だが、心臓の病で医師から仕事をとめられており、国の給付金で暮らすしかない。しかし、ある日彼は受給権の停止通知を受けてしまう。

どうやらイギリスの社会保障制度には、病気で就業できない人のための「支援手当」と、働きたくても就職先が見つからない人のための「求職手当」があるようで、彼は「就業可能」と役所からみなされ「支援手当」の給付ができなくなったらしい。わけのわからないまま、彼は情報を求め日本で言うハローワークへ。そこで子供二人を連れた若い女性が、職員と給付金のことで口論になっていた。その口論に入り、彼女を助けたことで、主人公は女性とその子供たちと交流を深めていく。

女性も、主人公も、貧困に直面し、国の社会保障制度に振り回され、追い詰められていく。しかし互いに支え合うことで、なんとか困難を乗り越えていくのだが、主人公は「支援手当」の再審査に望むその日に、心臓発作で亡くなる。ラストシーンで、女性が彼が残した文書を読み上げる。「私は一人の市民だ。一人の人間として敬意を示してほしいだけだ」。

……といったあらすじの映画だ。全体的に作為的な演出がほとんどなく、実際にあった事実をつないだ映像作品を観ているような気分だった。話は劇的な部分もあるけど、終わり方もあっさりしていたので、観終わったときは特になにも感じなかった。

そのあと、映画の感想を投稿するSNSでこの映画を検索した。「社会保障について考えることができた」、「イギリスの社会保障制度おかしくないか?」、「これは自分の身にも起こり得る」、「役所の申請が煩雑なのは本当に良くない」などなど、多様な意見がある、いわゆる社会派の映画であるため、映画を語りつつ社会問題へのまなざしが反映された感想が多かった。

 

主人公は、行政に振り回され、社会保障の網からすりぬけてしまった、社会的問題の犠牲者と言って差し支えないだろう。それを思い浮かべてもなんだかぼんやりした感想しか持てなかった理由が、駅前で署名活動をしていた彼女を見てわかった。

わたしは結局、行政の側に立ってしまう人間だったからだ。

煩雑な資料に苦情を言う人は多い。しかし今の行政システムでは致し方ないことだ。少数派を取り残しても、多数派の利便性を高めた方が、作業効率が上がる。ハローワークの職員も、理屈では納得しない人々にいつも手を焼いているから、態度が粗雑になってしまうのは仕方ない。

多分観ながら、そう思っていた。

そして、署名活動をする彼女を見て、「公立に行けばいいのにな」と思ってしまった。

その考えは、正論かもしれない。しかし、それは現在、この時点で何かの解決策になるのか?私立高校に通う学生は、公立高校とは学費が違うというハンデを持っている。一人の問題なら、転校して解決するかもしれないけど、大多数の学生はそのハンデにさらされ続け、現状が改善することはないのだ。

行政が自己責任を押し付けることの問題が、署名活動しかりこの映画しかり、浮かび上がって私に迫ってきた。

社会保障は本来、自信の努力ではどうしようもない状況に陥った人々を救うためのものだ。だからこそ、自己責任と社会制度は、対立してはならないはずなのに、国から補償を受ける人々への視座や、窮状を証明するための複雑な手続き(できる人、できない人がいる、つまり不公平)は、自己の責任を徹底して追及しているかのようだ。

いつからこんなことになった?

いつから私は、この自己責任を当然追及されるべきものとして、自分の思考に取り入れていた?

そして私は、国の制度を基盤にして働く人間として、持ってはいけない視座に立って仕事をしてしまっていないか?

辛いのだ。仕事は辛いことが多い。だから目を背けていた。安易な方向に行っていた。

ぞっとして、もう一度SNSを見た。

「税金もらってるんなら、職員ももっとまともな対応すべきでしょ」

知っているよ。その事実は代えられない。でも、ハローワークの職員は公務員の中でも低賃金で、直接市民と関わる、ある意味では自己肯定しづらい職種で、彼らだけが悪いんじゃない。制度が悪いんだよ……。そういう反論が思いうかんで、それすらも言い訳のように思えて辛くなった。

コロナ禍はまだまだ終わらない。国が給付金を支給しないと決めた範囲でも、確実に救いが必要な人はいる。そこへの対応方法がはっきり説明されないと、しわよせで市民の公務員への風当たりが強くなり、直接対応する公務員は心が荒れ、市民は不満を募らせる......。悪循環がまた起きないだろうか?公務員も、助けが必要な人も、そうではない「一般人」も、自己責任論を頭から吹き飛ばさないと、望む世界は来ない。安心はそこにはない。それはわかってしまう。