白い部屋の片隅で

主に寝て食っています

「わたしは、ダニエル・ブレイク」を観た日

休日の午後、ある映画を観た。ぼんやりとして夕方を迎え、夕食の準備のため駅前に買い物に行った。スーパーでは、数日前に解禁されたボジョレーヌーボーのフェアをやっていて、わたしは1本ワインを購入し、重くなった買い物袋を持って歩いていた。

「すみません、ちょっといいですか」

声をかけられた。制服を着た女の子。なにかバインダーを持っている。

「いま、私立高校の学費無償化の署名活動をしているんです。よろしければお名前書いていただけませんか」

数多くの人が駅前を歩く中、彼女は私を選び、マスクの上からでもわかるにこやかな口調で話した。彼女も、現役の高校生だという。私は買い物袋を地面に置き、そのバインダーの書類に名前と住所を書いた。予定になかったワインを購入した私、自分の通う学校の費用のため署名活動をする彼女。その子の個人的なことは何もわからなかったけど、書きながら私は午後に観た映画のことを思い出して、胸がどんどん苦しくなってきた。

 

私が観たのは、イギリスの映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」だ。

www.youtube.com

イギリスのある町に暮らす、壮年の男性が主人公。彼は経験豊富な大工だが、心臓の病で医師から仕事をとめられており、国の給付金で暮らすしかない。しかし、ある日彼は受給権の停止通知を受けてしまう。

どうやらイギリスの社会保障制度には、病気で就業できない人のための「支援手当」と、働きたくても就職先が見つからない人のための「求職手当」があるようで、彼は「就業可能」と役所からみなされ「支援手当」の給付ができなくなったらしい。わけのわからないまま、彼は情報を求め日本で言うハローワークへ。そこで子供二人を連れた若い女性が、職員と給付金のことで口論になっていた。その口論に入り、彼女を助けたことで、主人公は女性とその子供たちと交流を深めていく。

女性も、主人公も、貧困に直面し、国の社会保障制度に振り回され、追い詰められていく。しかし互いに支え合うことで、なんとか困難を乗り越えていくのだが、主人公は「支援手当」の再審査に望むその日に、心臓発作で亡くなる。ラストシーンで、女性が彼が残した文書を読み上げる。「私は一人の市民だ。一人の人間として敬意を示してほしいだけだ」。

……といったあらすじの映画だ。全体的に作為的な演出がほとんどなく、実際にあった事実をつないだ映像作品を観ているような気分だった。話は劇的な部分もあるけど、終わり方もあっさりしていたので、観終わったときは特になにも感じなかった。

そのあと、映画の感想を投稿するSNSでこの映画を検索した。「社会保障について考えることができた」、「イギリスの社会保障制度おかしくないか?」、「これは自分の身にも起こり得る」、「役所の申請が煩雑なのは本当に良くない」などなど、多様な意見がある、いわゆる社会派の映画であるため、映画を語りつつ社会問題へのまなざしが反映された感想が多かった。

 

主人公は、行政に振り回され、社会保障の網からすりぬけてしまった、社会的問題の犠牲者と言って差し支えないだろう。それを思い浮かべてもなんだかぼんやりした感想しか持てなかった理由が、駅前で署名活動をしていた彼女を見てわかった。

わたしは結局、行政の側に立ってしまう人間だったからだ。

煩雑な資料に苦情を言う人は多い。しかし今の行政システムでは致し方ないことだ。少数派を取り残しても、多数派の利便性を高めた方が、作業効率が上がる。ハローワークの職員も、理屈では納得しない人々にいつも手を焼いているから、態度が粗雑になってしまうのは仕方ない。

多分観ながら、そう思っていた。

そして、署名活動をする彼女を見て、「公立に行けばいいのにな」と思ってしまった。

その考えは、正論かもしれない。しかし、それは現在、この時点で何かの解決策になるのか?私立高校に通う学生は、公立高校とは学費が違うというハンデを持っている。一人の問題なら、転校して解決するかもしれないけど、大多数の学生はそのハンデにさらされ続け、現状が改善することはないのだ。

行政が自己責任を押し付けることの問題が、署名活動しかりこの映画しかり、浮かび上がって私に迫ってきた。

社会保障は本来、自信の努力ではどうしようもない状況に陥った人々を救うためのものだ。だからこそ、自己責任と社会制度は、対立してはならないはずなのに、国から補償を受ける人々への視座や、窮状を証明するための複雑な手続き(できる人、できない人がいる、つまり不公平)は、自己の責任を徹底して追及しているかのようだ。

いつからこんなことになった?

いつから私は、この自己責任を当然追及されるべきものとして、自分の思考に取り入れていた?

そして私は、国の制度を基盤にして働く人間として、持ってはいけない視座に立って仕事をしてしまっていないか?

辛いのだ。仕事は辛いことが多い。だから目を背けていた。安易な方向に行っていた。

ぞっとして、もう一度SNSを見た。

「税金もらってるんなら、職員ももっとまともな対応すべきでしょ」

知っているよ。その事実は代えられない。でも、ハローワークの職員は公務員の中でも低賃金で、直接市民と関わる、ある意味では自己肯定しづらい職種で、彼らだけが悪いんじゃない。制度が悪いんだよ……。そういう反論が思いうかんで、それすらも言い訳のように思えて辛くなった。

コロナ禍はまだまだ終わらない。国が給付金を支給しないと決めた範囲でも、確実に救いが必要な人はいる。そこへの対応方法がはっきり説明されないと、しわよせで市民の公務員への風当たりが強くなり、直接対応する公務員は心が荒れ、市民は不満を募らせる......。悪循環がまた起きないだろうか?公務員も、助けが必要な人も、そうではない「一般人」も、自己責任論を頭から吹き飛ばさないと、望む世界は来ない。安心はそこにはない。それはわかってしまう。

甘さ、ミルクティー並み

 なんだか今週はとても疲れていた。

 仕事が急にキツイ。2か月前から新しい部署で慣れない仕事をしているけど、今月に入って急に仕事の量と難度が上がった。それをしっかり認識したのが今週のはじめで、ちょっと口が開いちゃうくらい呆然とした。

 ただ質と量が高いだけならなんとかなるだろうが、仕事なので相手の感情とか都合とか、そういうものも絡んでくる。どうしたらいいかわからないことが多すぎる。こんな何もわからない状態で踏み出せるような、容易なものでもなさそう、というぼんやりした不安が最もしんどいかもしれない。

 一週間の出勤日は5日しかない。なのに今週は、その2日が研修で仕事に手を回せない。いや、回さなくて済む、というのが私の本音に準拠していると思う。

 そんな状態で今日、研修だった。しかもキャリアを考える研修。なんだキャリアって。しらじらしい言葉。こんな自信を無くした状況で、将来を考えるなんて、拷問だろうと思いながら、始まった在宅勤務での研修。

 自信がない状態で、自分の入社後の経歴を振り返ったり、なりたい将来を考えたりする。多分一人でやらされていたら辛かった。一人で、というか、上司も先輩もいる職場で、と言った方が正しい。職場の人たちはいい人たちだが、それでも自分にできないことをできているのを観るのは、相応にキツイ。

 その辛さが想像より小さかったのは、同じ時期に入社して、似た境遇にある人と共有したからだろう。正直、その人たちとは今回はじめて話した。だから全然個人的なことは知らないけど、それでも私と同じように、不安と孤独を抱え何とかやっている人がいる、という事実はなんか頼りになる。みんな同じだから安心、という種類のものとも違う。この感情は話してもいいことなんだ、と認められた気がした。

 もしかしたら私がここ半年くらい抱えているこの気持ちは、仕事についての不安を口に出せなかったことが一因なのかもしれない。じゃあなぜ言えなかったか? 会社外の友人には言ってもわからないし、社外には言えないこともあるから、というのは建前だった。みんながそれぞれ何か「好き」で「なりたい」ものを見ているときに、そうではない自分の悩みを言うのは、友人らをがっかりさせる、と思ったからだ。

 同期の人が、私の自信を無くした「将来」への語りを聞いて、こう言ってくれた。

「もっと自信を持ってもいいんじゃないかなあ。肩肘張らずやった方がモチベーション続くよ」

 そのときに、気づいた。

 色んな節目で私は悩み、誰にもそれを話さないうちに闇を深め、暗い方へと考えていった。そんなとき、何かの拍子でそれを外に出したら、人は私の自信の無さをいさめてくれていた。そんなことに、私は後になって気づくのだ。

 私が大きな秘密を抱えず、ゲラゲラ笑いながら酒なんか飲んでられるのも、そういう節目の他者からの優しさに触れていたからだ。

 自分の言葉にLINEで反応がなかったり、定期的に連絡を取り合う人は自分からLINEしないといけなかったり、なんか、そういう些細なことで、人への信頼を失くしていく自分が情けなくなってきた。甘いよ。全糖のタピオカミルクティーか。

 声を聴いてその人の言葉をかみしめるまで、人への信頼を簡単になくしてはいけないのだ。あああ、全然基本的なことができていなかった。俺はミルクティーです。

 

ワンピース離れ

 学生時代、ワンピースをよく着ていた。毎日私服で、着る服を考えるのが本当に面倒で、その手間が軽くなるからだ。「可愛いから」という積極的な理由でワンピースが好きな女性もいるだろうが、私の場合は手間の面だけ考えた非常に消極的なものである。

 社会人になると、平日着る服はなんとなく決まってくるので、週末だけ好きな服を着ることができる。そのため、着る服を選ぶことが面倒とは思わなくなり、気づいたらあまりワンピースを着なくなっていた。

 気づいたら夏はもうすぐそこに来ている。夏……。スイカ、花火、浜辺、白いワンピースに、麦わら帽子……。自分自身が着るかどうかは別として、夏はワンピースが似合う。風に揺れる様子が涼し気だからだろうか。まあ風物詩のようなものだろう。

 昔、友人と買い物に行った時、私は白いワンピースを試着した。それまであまりワンピースを着ることのなかった私は、ワクワクして試着室から出て、友人に見てもらった。その子はじっと私を見つめ、半分わらって「なんか天使みたいだね」と言った。天使ってなんだよと思い、しかしその半笑いで誉め言葉ではなかろうことを予想し、もう一度自分の姿を鏡で見てみた。「天使」という言葉が的確で、思わず吹き出しそうになった。つまり、クリスマスやハロウィーンで、幼い子供がお母さんの作った天使のコスチュームを着ているみたいなのである。はっきり言って「全然似合っていない」。それをあえて直接言わず、的確な比喩をするワードセンスに感服した。それから私のなかで、夏の風物詩「白いワンピース」はただ憧れるだけのものとなった。

 ワンピースは可愛いかもしれないが、似合うかどうかがかなり紙一重で、いいと思って購入しても、全然似合わなかったり着心地が悪かったりする。リスキーな服、という側面も見えてきた。しかし、知り合いの男性が「ワンピースは女の子しか着られない服だから、もっと積極的に着ればいいのに、俺は好きだなあ」と言ってきたことがあり、心の底から余計なお世話だと思った。私は私が着たい服を着る。他人が好きな服を着てあげる筋合いなどないし、女性らしさを感じたいときに感じるので、ほっといてくれ、と言ったところだろうか。角が立つので言えなかったが、その人の前ではワンピースを着まいと、心に固く誓ったのであった。

朝食という聖域

 一般的な人間は朝、昼、夜の三回食事をする。偏食ではない限り、毎日同じものを食べ続けるのは苦痛だから、「昨日は魚だったから今日は鶏肉にしよう」とか「余った肉じゃがをカレーにリメイクしよう」とか、食事を作る人は考えるわけである。少しネットで検索すれば、同じ材料でも多種多様なレシピがすぐ見つかるし、リメイクレシピも山のようにある。

 しかし、この「昨日食べたものを今日食べたくない」という心理は、朝食においてのみ作用しないのではないだろうか。大体朝食は「ごはん派」と「パン派」の2派閥に分かれ、ごはん派は昨日ごはんを食べたからといって翌日パンを食べようとか思わない。かく言う私は完全なパン派で、ほぼ毎日食パンとコーヒーが朝食である。毎日昼ご飯がカレーなのは苦痛だが、毎朝パンであることに何一つ疑問も持たなかった。よく考えたら変な話だ。

 朝はなにかと忙しく、「何を食べよう」と思考する時間がなく、決まりきったルーティンの中で動くことが最も効率的だからかもしれない。私が食べるパンなんて、トーストのみなので調理すらいらない。また、朝起きたばかりだと胃腸の動きが鈍く、その負担にならないメニューが固定化され、次第と同じものを朝食べることで体が目覚めるようになってきたからなのかもしれない。

 だから、旅行に行った時、ホテルの朝食ブッフェであんなに心が躍るのは不思議だ。パンだけではなく、シリアルやお粥、パンケーキなど、普段は口にしないものもどんどん皿に取り口に運ぶ。もちろん、ブッフェ自体が私をわくわくさせているのは間違いないが、朝食の食べ放題は何かが違う。いつも単調な朝食を食べている反動だろうが、「楽しみ尽くしたい」という執着心の強さが凄い。 

 そんなことを考えていたら、ホテルの朝食が猛烈に恋しくなってきた。しかしブッフェというのはそもそも一人で行くのはハードルが高く、中でも朝食なんて朝早いから人を誘いづらい。この障害の多さが非日常さを増しているのだろう。朝食のブッフェ万歳。

知性

「フランスでは、知性があり、興味深い会話ができることが、パートナー選びでは絶対の条件なんだ」

 先日話をしたフランスから来た人が、そう話していた。

 流れとしては「日本人の男性は、可愛らしい容姿であること、自分より学歴が低い女性を好む」ということを話しており、その対比として出た言葉であった。私はそれを不愉快なことだと思ってはいたが、どこかでそれが当然と考えていた自分もいて、目覚めるような気持になったことをよく覚えている。

 そして「知性」という言葉が私の心に強く残った。言葉としての存在は知っていても、あまり使うことがない類の言葉であったからだ。「知性がある」とはどういうことか、少し立ち止まり考えてみようと思った。

 「知性がある」とは知識がある状態とは異なる。思うに、知識を手に入れたとき、それに関しどう考え、活用するか、もとい、知識を立ち止まり検討できるか、それが知性の有無の分かれ道ではないだろうか。知識を手に入れやすい昨今ならば、「メディア・リテラシー」も知性の一つだろう。Twitterで目にした情報を鵜呑みにしないこと、テレビの報道から得た印象のみを信じないこと。情報の再検討や、情報に対し意見を持つことが重要と思われる。

 意見をもっていること、その最たるものは、自身の絶対的な哲学を持ち生きるということではないだろうか。自身のこだわりを貫くというのは、わがままとは少し違う。毎日積み重ねなくてはならない選択を、自分が納得できる主軸に沿って成すことはただ自己中心的であることよりよほど難しい。意志の強さ、誘惑への忍耐強さ。そんなものも必要だ。振り返ってみれば、私が好きになる人たちもその姿勢に確かな哲学が感じられた。尊敬する友人も、先生も、その作品を追いかける作家やアーティストも、自分なりの哲学を築き、それに基づいて行動しているように私は思い、魅力を感じたのではないだろうか。

 現代社会で生きる我々は実はいろんな問題の渦中にある。政治的な傾向とか、経済への視座とか、この日本では口にすることが気恥ずかしいという空気がなんとなくあって、表明しづらい。かく言う私も他者の反応が恐ろしくて、自身の方向性を表明できていない自覚はある。これには気恥ずかしさに加え、自分の「知識」の無さが露呈するのが怖いから、というのもある。「知識」の無さを示すことが、実は「知性」を身に付ける第一歩なのかもしれないと思い、そのハードルの高さに頭を抱えた。

 

ベンツと薔薇

春が終わった。そう感じるほど気温の高い日が続いている。

街で見かける花々は、桜が代表するような淡い色のものから、存在感を周囲にアピールしてやまない原色のものへ移行しているように思う。母の日も過ぎ、どこかの子供が母に贈ったカーネーションの赤い色が、いたるところのベランダで揺れている。そんな気がする。

私はそんな軒先からしか季節を感じられないような住宅街に住んでいる。世間がどこへも行くなと言うから、近所を散歩するしかない。近所には少し歩くと、まったく別の世界が広がっている。俗にいう「高級住宅街」だ。いったいどんな悪いことをして手に入れたんだろうと思うほどのでかすぎるガレージや、青々とした芝生の庭、コンクリートのシミ一つない壁。そして、ベンツが広くはない路地を通過する。そのベンツは決まって、シンボルマークが埋まっている階級が高いものだ。ピカピカに磨かれたベンツが入った車庫、庭に咲き誇る様々な色の薔薇。資本主義が私の目の前をかすめ、その暴力がたてる風でクラクラしかける。

社会に出て数年が経つが、車庫にベンツを納めて庭に薔薇を咲かせるのが、どれほど至難のわざか、なんとなく理解してきた。それが羨ましいなど一片も思わなかった学生時代の日々が遠く感じる。ベンツや薔薇が社会に適応し、認められた証だということはしないが、それでもそこには何か「安らかな生活」の香りがする。ベンツがあるのは、家族を素晴らしき休暇へ連れていくためかもしれない。薔薇を庭に咲かせるならば、その世話をするだけの時間がある家族を養っているのだろう。

それは、ただ目標に向かい邁進した結果の副産物かもしれない。素晴らしく高級な生活であることを誰も否定できないだろう。でもこれを社会で生き続けるためのモチベーションにできるほど、私は昔の自分を突き放すことができない。社会的ステータスなど相対的な物ではなく、絶対的な自信や存在意義。なんのために自分は生きて、存在して、このあとこの世界で呼吸し続けるのか、まだまだ答えが出ない。早く道筋を見つけたい、という焦りのみで生きている。

また今日も散歩から帰り、白い部屋の壁を見つめて浅く呼吸をする。

江戸時代が面白すぎるのだ!

 今年は紙の本ではなく、アプリで電子データの漫画を読むことを覚えた私だが、最近よしながふみ氏の『大奥』を読んだ。アプリ上であるが、17巻分を1週間ほどで読み終えてしまった。吹き出しの中の文章量が多い作品なのに、どんどんページをスクロールしてしまう。おもしれえ~~。

よしながふみ|MELODY[メロディ]|白泉社

 『大奥』というと、かつてフジテレビで連続ドラマがやっており、時代を席巻したから世によく知られているだろう。簡単に言うと、江戸城内に設けられた将軍のためのハーレムである。将軍という一人の男のために、何百という女性たちが仕える特殊な場所のことを「大奥」と呼んだ。その場所を舞台にしたドラマは、なんとなく覚えている。贅を尽くした着物や、たくさんの規則、愛憎渦巻くドロドロとした世界観などなど。幼いながら魅力的なテーマだと思い、印象深かったが、そのテレビドラマが流行した数年後、毛色の異なる「大奥」という映画が製作された。昨年私はこの映画を観たのだが、ちょっとびっくりした。なんと、将軍が女性だったからだ。当然、女性一人のための大奥ならば、そこで働くのは美男子たちになり、あの大奥の男女逆転版となる。美男子たちの競演が眼福で、良い映画であった。

大奥 - 作品 - Yahoo!映画

 しかし、「オーシャンズ11」の女性版が「オーシャンズ8」として製作され、「ゴーストバスターズ」も女性版として最近作られたし、ここ数年の時流に配慮して作られたものなのか?と思ったが、なんとこの作品には原作の漫画があるという。そのようにしてこの漫画の存在を知り、ずっと気になっていたが、先日アプリ上で読み放題のキャンペーンをしており、ハマるに至った。

 この漫画は八代将軍吉宗の時代から始まる(映画は吉宗の時代を切り取って映像化されていた)。そこから、大奥に残された記録から、男女逆転状態になった三代将軍家光の時代にさかのぼり、七代までの大奥の歴史が振り返られる。そして吉宗の時代に戻り、時はどんどん進んでいく。現在は十四代将軍の時代まで描かれており、このまま描いていくと江戸幕府の時代を網羅することになる。

 ん?なんか『大奥』同様に、江戸時代の歴史を辿る漫画にハマったことあったよな?もわもわと、私の脳裏にまるっこい体で各地を走り回る人物たちの絵が思い浮かんできた。みなもと太郎氏の『風雲児たち』である。高校生のとき、日本史の先生から勧められた漫画だった(世界史はもちろん『ベルサイユのばら』である)。関ヶ原の戦いから始まるこの漫画は、丁寧に江戸時代を時系列で追って描いていて、この時代に奔走した人たちの志や努力、生き様がまぶしくてとても面白かった。たくさんのエピソードがあるが、印象深いのが『解体新書』編だろう。今のように辞書があるわけでもない時代に、異国の医学を学ぶために一から異国の書を読み進めた男たちの物語で、保守的な幕府の内にあって先進的な考えを持った田沼意次の姿がかっこよくて惚れた。懐かしい。

 この『大奥』にも田沼は出てきて、その政治を執り行う姿勢はすがすがしく、世間とのズレから生じる失脚劇も切ないものであった。『風雲児たち』と大きく違うのは、この田沼が女性であるということ。田沼だけではなく、平賀源内も、吉宗も、みな女性として描かれている。鎖国、新技術導入への壁、安定を継続させるための政策、世間の風当たり…。これらの要素に男性が表舞台に出ることができないという事情が加わり、より複雑さを増した江戸時代の動乱が、生々しく切実に描かれている。また、男性が表舞台に出られないという事情から「男は政なぞに口を出すでない」という、現実から考えたらなんとも皮肉な台詞も登場する。男女逆転にしたからこそ、現実の女性の境遇が浮き彫りになる、なんて効果もあるように思う。

 単純に絵が美しく眼福であった。一気に読んでしまったが、じっくり読み込むこともできる、濃い内容の漫画だ。また完結まで追いかけて、最初から読み返してみたい。