白い部屋の片隅で

主に寝て食っています

母の日

 一人暮らしの為、実家で暮らす母とは普段会わない。不思議なもので、同居していたときのイメージが薄れ、ただ「会いたいな」という気持ちがある。中学生のときなど、俗物だ、口を開いたら愚痴ばかりだ、など思っていた気がするが、やけに辛辣な中学生だなあ、としか今は思わない。

 ただ、とがっていた頃も母の日や誕生日は何かしらプレゼントをしていた。中高生までなど所持金も少ないので、ハンカチなどちっぽけな物しかあげていなかったが、大学生になってからはシャツやピアスなど、それなりの進歩を見せた(自分で言うことではないが)。正直、毎年何を贈ったか、渡した瞬間忘れるのだが、よく考えたら母の日定番の「カーネーション」をあげたことがないことに気づいた。おまけに、今年は某ウイルスのせいで外出自粛、よっていろんな店を覗いて何がいいかな、など考えることも叶わない。ベタを行くのも良いだろうと、今年の母の日はカーネーションを贈ろうと決めた。

 今年は帰省もできないので、配達で花を届けるしかない。まあまずは楽天で見てみよう、そこから決めていこうと私はショッピングサイトを開いた。開いた瞬間、母の日の特集ページがあり、何の気はなしにその中の商品をクリックしてみた。……なんじゃこりゃ。カーネーションって、赤以外もあるのか。その商品は17色のカーネーションの花鉢があり、そこから選択することができるらしい。


 しかも、その花の色名がすごく可愛い。濃い桃色で、八重桜のような見た目の「さくらもなか」や、中心部が真っ赤で花びらの縁が白い「いちごホイップ」など、見た目の美しさとお菓子のような名前が愛らしいのである。色名だけでも買いたい。夢のある名前をみるととてもわくわくする。

 ということで、色名を見て色々迷ったわけだが、母の日直前ということもあり、あまり選択肢がなく、残っていた可愛らしい白っぽいカーネーションの花鉢を注文した。複数のサイトを見て決めるつもりだったのに即決してしまったが、まあ目的は果たしたので満足である。

 注文してから気づいたのだが、花鉢より切花の方が良かったのではなかろうか。母が世話するとは限らないうえ、何より実家には犬がいる。いくつになってもわんぱく小僧で、散歩中道端の植物に異様に興味を示すし、奴は複数回花壇を荒らした前科があるのだ。あいつ、花の根元を掘りそうだな……と思ったが、何か月も会っていないため、犬に対し苦々しさより愛しさが勝ったので、「大丈夫だろう悪い奴じゃないし」ということにしておく。

 

 

 

本が読めない気がする

 年々、読書への意欲が低下している気がする。確信ではない。かつて大好きだったので、そんなわけがないと思いたい気持ちがあるためだが。

 今の状況を反省するため、ざっと私と本の関係を振り返ってみる。

 小学生のときから本を読むのは好きだったが、他に好きなことはあった。絵を描いたり、犬を追いかけまわしたりしたし、何より習い事や塾で忙しかった。それでも他の同級生よりは読んでいたし、誕生日プレゼントに本しか欲しがらないような子供だった。今思えば、母も面白くなかっただろうな……。

 中学生になると、部活以外はもはや本しか読んでいなかった。というか、部活が自分にとっては苦行だったので、楽しみが読書しかなかった。中一の後半など、昼休みに図書館に一人で入り浸り、交友関係拡張への努力を放棄していた。そのためか、中学では、一番図書館で本の貸し出し数が多い生徒であった。

 高校に入っても読書はした。勉強が忙しくなったが、寝る前必ず本を読んでいた。勉強をしに近所の図書館に行っても、帰る前必ず何冊かは本を借りて帰っていた。受験が本格化しても本を読むことはやめていなかった。

 さて。ここまで私は「本」と表記し続けたが、この「本」はすべて物語及び小説である。大学に入るまで、私はあまり小説以外の本の存在に目をむけることはなかったし、小説以外を読むことに価値を感じていなかった。私にとって読書は趣味であり、快楽であった。「学ぼう」という意欲はそこに存在せず、ただ自分を楽しませてくれるものを欲した。

 それゆえか、大学時代の「読書」には挫折した。大学では読書それ自体が学びとなる。授業では、当然のようにその学問における名著を読んだものとして話が進む。それを、私が好きだった趣味としての読書ではなく、腹が立つほど難解な本を読み、なんとかレポートのエッセンスを見つけ出す作業としての読書、と私は感じた。つまり、全然面白くなかった。本のどこかに物語性がないと自分はダメなんだと気づいてがっかりした。

 挫折の理由はこれだけではない。映画との出会いである。大学図書館では映画のDVDを自由に見ることができ、それを利用するうち、私は映画の面白さに目覚めた。そしてサブスクリプションサービスを利用したり、映画館に通ったりするうち、読書の習慣が消えていった。

 読書をしないこと、それそなわち「悪」と思っているわけではない。ただ、いろいろな思い出を与えてくれた読書が自分から離れていっているのが寂しい。じゃあ読めよ、という話だが、以前より話が頭の中に入ってこなくて、途中でやめてしまう。その自分の変化を認めなくて、ますます本から手が遠のく。まさに悪循環である。

 このままだと私が唯一ずっと一緒だったものと離れてしまう。背伸びせず、面白そうな本を見つけたらなんとか読めるさ、と気休めにポジティブになってみる最近の日々である。

Spotify Freeはいいぞ

 突然ですがSpotifyてご存知ですか。音楽サブスクリプションサービスの一つです。そしてSpotify Freeとは、その無料会員およびその会員が受けられるサービスのことを言うわけです。私はこのSpotify Freeが如何に良いものであるか、4つのポイントをあげて語りたいと思います。

  1.  無料である。知ってた。それは前提条件。しかし、この世に無料ほど強いものってありますか? 無料で好きな音楽が聴けるんだぞ。よきかな。
  2.  壇蜜の声が聞こえてくる。Spotify の無料会員と有料会員の違いといえば、広告が流れることなんだけど、最近では南海キャンディーズをはじめ、タレントの起用が増えている。中でも壇蜜の声が流れてきたときは驚きましたね。あのソフトな声が耳元で囁くんですよ。眼福ならぬ耳福ですわ。
  3.  曲の選択をお任せできる。Spotify Freeはシャッフル再生のみ可能なんだけど、逆に言うと好きな曲のプレイリストを作っておけば、その中から曲をいちいち選択しなくていいわけです。最近では広告で、おじさんが次の曲を選択していることが判明してちょっとわくわくしちゃいましたね。このおじさん、私の好みを熟知しているらしく、曲の関連性とかも考えてるみたいだぞ。素敵なおじさんだな。
  4.  新曲が聞ける。いやあサブスクリプションて凄い! 昔はCD買ってインストールしなきゃ自分のデバイスで聴けなかったのに、今じゃ検索するだけで新曲がどこでも聴けるんです。時代の変化を感じました。

 以上が私がSpotify Freeをお勧めするポイントでした。ただし、感じ方には個人差があります。広告のわざとらしさ、執拗な有料会員への勧誘に耐えきれない人にはお勧めできません。また、ドライブで音楽を流すとき、BluetoothSpotify Freeに繋ぐと、友人たちに謎の広告を聴かせてしまう可能性があるので、個人的には避けた方が良いと思います。それでは快適なサブスクリプションライフを!

柄にもなくお菓子を作る

 かつて、実家に住み、ストレスフルな中高生時代を過ごしていた私は、なんとなくお菓子を作っていたものだ。小麦粉を測り、牛乳や砂糖を混ぜ、クッキーやらパウンドケーキやら焼いていた。母はこれを評して「ストレス発散」と言っていたものである。

 さて、一人暮らしをはじめ数年目であるが、急に降ってわいたように「お菓子を作りたい」と思った。今思えば、平日など自炊もろくにしないレベルの私が、思いあがったものである。

 とはいえ、家にはオーブンも炊飯器もないので、作ることができるものは限られる。なるべく火を入れないものがいい。しかしある程度「作った」達成感を得たい。

 そうだ。生クリームを泡立てよう。何かで見たが、クッキーを重ねて、生クリームでコーティングするだけでケーキのような満足感を得られるよきものができると。ネットで探すと、それはかつて黒柳徹子が番組で振る舞ったものであるとか。まあ。まずは作ってみるかと、私は意気揚々と昼前のスーパーマーケットに繰り出した。

 さて、ここから何点か私は失敗する。まず失敗①。脂肪分の少ない生クリームを選んだこと。その隣には「あとは絞るだけ」という、失敗とは無縁な商品が置いてあったのに、「泡立てなくてはいけない」という妙な使命感にとらわれた。自分は手で泡立てられるはずという確信しかなかった。生クリームを泡立てるなど、生まれてこの方したことがないくせに、偉そうなものである。

 帰宅し、ここで失敗②。大して冷蔵庫に入れて時間が経っていないのに、生クリームの泡立て準備を開始した。生クリームのパック側面にあった説明に従い、氷水を張ったボウルの上で生クリームを泡立て始めたが、その説明にある「空気を抱き込むように泡立てる」とは何かわからず手をひたすら動かした。おいおい。そこは検索するなりなんなりして調べようぜ。そうしなかったことが失敗③だろう。反省した未来の私はそんな風にアドバイスするけど、目先の達成感にとらわれた私は、ただぐるぐるとかき混ぜ続ける。

 ……5分ほどたったが一向にとろみがつかない。更に5分。おかしい。ぜんぜん変化しない。ツノなどたつわけがない。ここで私は自分が「生クリームを泡立てられない」側の人間となったことを悟る。そもそもケーキをつくることが目標であったのに、こんな初めの段階でつまずくとは想定だにしていなかった。軽く目の前が白くなったが、立ち直って検索をしてみた。「生クリーム 泡立たない」で多くの情報がヒットする。私の目に、レモン汁をいれるといい、という文字が飛び込み、すぐさま実践した。

 無意味であった。なんとなくとろみが増した気はしたが、「塗る」ことができるほどではない。このまま諦めるのはしゃくなので、牛乳にほぼ溶けてしまったクッキー(長く浸してしまいビシャビシャだった。これは失敗④)に生クリームをかけた。なんだこれは。ケーキからは程遠く、何やら白い塊ができた。正確に言うとラップで固定しないと流れそうなほどの柔らかさなので、塊ですらないが……。

 そこから5時間ほど冷蔵庫で冷やしたが、気休めでしかなかった。ケーキとは言えない代物をあきらめ気味で口に運ぶと、意外にも味はケーキに近い。いや、クッキーもよく考えればスポンジケーキと材料はほぼ同じだし、生クリームは泡立たなかろうが生クリームであることに変わりはないのだし、味が近いのは当然である。しかし、口当たりの豊かさはゼロである。スポンジ部分のふわふわ感、生クリームの滑らかさ、フルーツやナッツなどの歯ごたえも当然ない。改めて、ケーキが我々にもたらす幸福は、ただその甘さ故ではないということがわかった。そのまま飾りたいような繊細さ、純白のクリームに映える色とりどりの飾り、口に入れた瞬間感じる多様な香りと触感、それをもって「ケーキを食べる」体験となるのである。

 というわけで、私のお菓子作りは失敗に終わった。洋菓子は私にはハードルが高いに違いない。団子なら私にもできるのではないか。いや、団子ですらも失敗に終わりそうな予感がする。しかし、お菓子作りで得られる達成感をもう一度手にしたいのである。また果敢に挑戦してみようではないか。ただし、下調べは忘れずに。